曖昧さへの寛容度が高い人は外国語習得にプラスの要因があるのだそうだ。


考えてみると確かにその通りだろう。


言葉に完璧なルールは存在せず、定義も使い方も時と場合によって変化する。曖昧さは必然的に逃れられない運命として言葉に包含されている。いや、本来 完璧な言葉の定義というものはこの世に存在せず、一つひとつの言葉もあくまで対象を表す記号でしかありえないのだ。まさに曖昧さは言葉の本質と言ってもいいくらい。



にも拘わらず、外国語習得に際して曖昧さを許容できずに苦しむ学習者が少なくない。曖昧さを一つひとつ解き明かしていこうとする姿勢には頭が下がらないこともないが、その時間とエネルギーがあれば曖昧なまま自分の中に取り込み、インプットの量を増やすことを優先させるべきなのだ。



次のステップはアウトプットの時に曖昧さを残したままで使ってみること。使い方の正しさを意識することよりもまず使ってみる!この姿勢が習得への早道となる。まさに語学習得のための最も大切な心構えの一つではないか。


その意味で子供は言葉の天才だ。曖昧さへの寛容度は間違いなく高い。厳密に言うと寛容度が高いのではなく、わからなくても気にならないのだ。



その状態で全体像を取り込んで理解しようとする。全く理解できなくても無意識のうちに自分の中のプールに溜め込むのだ。単語や熟語、言葉の使い方や習慣、その他全てのものを自動的に蓄積していく。



気がついても気がつかなくてもそれらの膨大なデータベースからピースの一つひとつが知らぬ間につながっていくのだ。それが真の学習と呼べるものではなかろうか。



日々学びであり、その積み重ねがいつかは大きなことにつながっていく。



もう一度自分の中にある常識を疑ってかかってみよう。



曖昧さへの寛容度をあと数度ほど上げることで何かが劇的に変化するような気がしてならない。