一、仏は自害・断食・身根不具を禁じていること 涅槃経巻七に「もしも『常に一本の足の爪立てて静かに黙って、ものをいわない、また川の深い所に身を投じたり、火の中に入ったり自ら高い岩から落ちたり、険しい山道を好んで歩いたり、毒を服したり、食物を断じたり、灰の土の上に伏したり、自ら手足を縛る行をしたり、あるいは殺害しようとする。また方角占い、呪いの術を行う者、旃陀羅の子、男根と女根ともに具えない者、男根または女根を二つ具える者および 男根か女根か定まらない者、または身根を具えない者、このような者でも、ことごとく出家して仏道をなすことを如来は許す』というならば、これを魔説と名付ける」とある。 法華玄義巻二に「涅槃経巻六に『大乗を学ぶ者は肉眼があるといっても、仏眼とする』とある。耳根・鼻 根などの五根についても同じである」とある。 像法決疑経に「もろもろの悪比丘は私の真意を理解しないで、自分の見解に執着して十二部経を宣べ説き、文に従って意味を取り、それを決定した説となすであろう。まさに知りなさい。この人は過去・現在・ 未来の三世のもろもろの仏の怨である。速やかに私の法を滅ぼすであろう」とある。 涅槃経巻十四に「如来・世尊は大きい方便を用いる。無常を常と説き、常を無常と説き、楽を説いて苦となし、苦を説いて楽となし、不浄を浄と説き、浄を不浄と説き、我を無我と説き、無我を我と説き、非衆生において説いて衆生となし、実の衆生において非衆生と説き、非物を物と説き、物を非物と説き、非実を実 と説き、実を非実と説き、非境を境と説き、境を非境と説き、非生を生と説き、生を非生と説き、また無明を明と説き、明を無明と説き、非色を色と説き、色を非色と説き、非道を道と説き、道を非道と説く」とある。
(日蓮大聖人御書講義第十二巻中 釈迦一大五時継図 第13章 自害・断食等の禁止を明かす)

要するに仏は自害、自殺、断食、自傷行為はすべて禁じているのである。

【解説文】
 ここでは、
   「一、善導和尚自害の事」
 として、中国の浄土宗の祖師の一人であり、日本の浄土宗の法然が最もよりどころとしていた善導の自害の事実を取り上げ、次に、それが仏の戒めに反する行為であることを
   「一、仏自害・断食・身根不具を禁ずる事」
 として、涅槃経からの引用によって明らかにしている。
 まず、善導が浄土往生を願って自害したことを法然の類聚浄土五祖伝の文を引用して紹介されている。類聚伝の記述は中国・栄代の戒珠の浄土往生伝によるものである。すなわち、善導が自分の身体にもろもろの苦しみが迫り来たり感情の変化も激しく移り変わり少しも休む間がないので、自分が住んでいる寺の前の柳の樹に登り、西の方角に向かって次のように願ったという。「願わくは仏の威力が自分にとどき、観音・勢至の二菩薩もやってきて自分を助けて自分の心が正念を失わず、恐怖もおこさず、阿弥陀仏の法の中に救われて落ちないようにしていただきたい」と、このように願い終わった後、樹上から身を投じて自害したというものである。浄土宗では、極楽往生を理想とする念仏信仰の手本としてこのエピソードを伝えたのであるが、日蓮大聖人は、自害を禁じた仏の教えに背く行為であることを、次の「一、仏自害・断食・身根不具を禁ずる事」の項で涅槃経の文を挙げて示される。
 初めに涅槃経巻七の文は邪正品第九の文で、仏が迦葉菩薩に、仏の所説に随う者を菩薩とし、魔の所説に随う者を魔の眷属とする、として立て分けている個所からの引用で、ここに引用されているのは魔説の一つとして挙げたところである。その内容の中心は、身体を痛めつけるさまざまな外道の苦行をなす者も、出家して成道を成就できることを如来は許しているとする説についてである。逆にいえば「身体を痛めつける苦行では成仏できない」というのが仏の教えであるということである。そうした苦行の具体例として、沈黙して一本の足で立ち続けていたり、河川の深い所や火の中や高い上の岩から身を投じたり、毒を飲んだり断ち切ったり、灰土の上に寝たり、自分の手足を縛ったり、衆生を殺したり、方角占いや呪いの術を行ったり、その他、身体を満足でないようにするなどが挙げられている。
 次いで、涅槃経巻六の四依品第八を引用し、なぜ自害や断食や身根不具が禁止されるのかという理由を挙げている。すなわち、大乗を学ぶ者は人間の肉体に具わる通常の肉眼であっても、それが仏の具える眼となるという涅槃経巻六を引いて、この原理は耳・鼻・舌・身にも当てはまるとしている天台大師の法華玄義巻二の言葉を挙げている。大乗を学べば父母から受け継いだ身根のままで、仏の身根を持つ者となるのであるから、苦行によって、身体を自ら殺害したり、断食したり、身体の一部を不具にしたりすることは、明らかにこの仏説をないがしろにした行為となるのである。
 さらに続けて引用されている像法決疑経、涅槃経の二文は、仏滅後、仏教が形骸化し滅びていく根本原因として、仏の真意によらないで我見で解釈する悪比丘が充満することを指摘したものとして挙げられている。
 この二文は、むしろ順序を逆にして読んだほうが、その引かれた真意を理解しやすい。すなわち、涅槃経巻十四に述べられているように、仏は「大方便」を用いて、一見すると矛盾するような説き方もされている。そのため、像法決疑経にあるように、仏の滅後には、仏が説いた十二部経を、仏の真意から外れた我見によって解釈し、邪見を広める悪比丘が多く現れる、というのである。
 仏があくまで方便として説いた極楽往生や阿弥陀仏の慈悲を仏教の根本であるかのように主張する浄土教・浄土宗がまさに、この「悪比丘」の例であるとし、自害・自殺を禁じた仏説を無視して、善導の最後を美談化していることも、この「悪比丘の邪説」の類となることが明らかである。